広島市郷土資料館のこと-連載(第2回)

<画像:『広島市郷土資料館』の西側入口付近>
(撮影月日)平成24年9月下旬
(撮影機材)iPhone
な、何と!入館するなり、館内が異常に騒がしいから驚いた。(第一回記事はこちらから入れます…)
入館者の姿が見えないのに、館内の何処からか、子供の声がうるさ過ぎる。
入館者がいなくて、館内があまりにも静かだから、なおさら子供の声がけたたましく響き渡る。
「喚(わめ)き声の塊が博物館(資料館)に響き渡るのは、よくない。これはルール違反であるぞ、、、」と、独り言をつぶやきつつ落ち着かない。
いみじくも、市の資料館と称する当館の「あるべき姿」は、本来静寂にして整然なる環境であるべきところ、なんと騒音は館内に響き渡ることけたたましく、
「発生源はどこか?」
と、周囲を見渡せば、
私以外に館内に小学校4~5年生と思われる集団がたった一つあり。約3~40人あまりの児童は、若い男女2名の教師に引率さている。 「ほかに見学している人がいるのですから静かにしましょう…… 云々」うら若き女性教員が(小学生に対し)注意らしき文言を発しても、効果は皆無。 ガキどもは決して静かにしようとしない。傍若無人に立ち振る舞い私語は喋くり捲り止む様子無し。 平素聞き慣れぬ小学生的騒音に耐えつつ、あえて平静を保ち、独り静かに館内を巡る。
巡り観たものは、以下の通りである。
A) 江戸時代から引き継がれた良好な農作地(現・広島市安佐南区佐藤町&八木界隈)の超科学的用水路の歴史的資料を高々と(郷土として)自慢し、平均的江戸時代の農産物である『桑』(蚕殖産)や『麻』の栽培に使用された農機具や機織り機などが展示され、
B) 当時(江戸から明治まで)の広島城下は太田川下流の三角州が現在まで出来上がっていなく、ほとんど干潟状態にて、海苔や牡蠣の養殖がなされていた、とのこと。わずかに残る(江戸時代か)関連「絵画資料」は宮島時代絵画から引用したもの。広島そのものの資料は、たぶん原爆で消滅したのであろう。
C) 明治になって広島藩から広島県へと廃藩置県が行われたあと、千田県令による大埋め立て工事が施工され、いわゆる今の千田町(広島市中区)が出来上がった等々、
今の広島市民(住民)の一般的な想像を絶するほどに、物理的にはあまりにも貧弱にして矮小的、知的にはあまりにも白痴的な、そんな『平和都市広島』の出来上がった昭和20年以前の郷土の歴史資料がチマチマと収められているのであります。
郷土広島の『こんな貧弱な歴史』?在り得ないです。
江戸時代の広島は、浅野家(浅野藩)が滔々と藩政(広島市政と県政)を営みつつ城下町の歴史が紡がれていき、明治期に繋がっていったはずです。 何故に、浅野藩の城下町であった広島を、その歴史のページを編んだ江戸封建時代の武家と農民と商人と工業職人達が育んできた『生活している人間の歴史』の痕跡を何故組み込まないのですか?
且つ、明治維新以降、城下町広島の経済を一変させ急成長させた(はずの)軍都広島の『生き様』を、何故かき消すのですか?
城下町のレッテルと、軍都のレッテルを剥がすと、郷里広島の歴史の年輪は「のっぺらぼう」になる。室町時代から原爆投下の日までに刻まれた歴史の年輪は見当たらない。郷土の歴史とはほとんど白紙状態にて、太田川沿いの川沿いや川辺に残る僅かな農耕利水工事の面影と、旧広島市(現・中区西区東区)を形成する三角州が未だ十分な平野に発展していなかった当時の、干潟の時代の広島湾の沿岸漁業を絵画に描いただけの、しかも宮島歴史資料から借りてきて展示した、そんな貧弱な郷土資料を展示し、次世代を担う若者(小学生を含む)に紹介するだけでは駄目だ。 あと半世紀も経たぬうちに、語り継ぐべきものは原爆と平和を叫ぶだけ?それ以上には何も残らなくなる。
かくして約1時間の資料館見学を終え(この資料では見学するのに2時間は必要ない)、情けなく虚しく寂しくなった。(連載・第3回へ続く…)
(投稿:エセ男爵/トーマス青木)
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* 【感想後記】この記事を書いた後になって『江戸期の広島』に関する歴史的資料について、あれこれ思いました。そう、広島城へ行けば見当たるかもしれません。 今年一度、本格的に寒くなる前に出向き、ちょっと調べてみます。
* 『広島市郷土資料館』は、こちらから入れます。
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まとめ【広島市郷土資料館のこ】
<画像:『広島市郷土資料館』の西側入口付近>(撮影月日)平成24年9月下旬(撮影機材)iPhone な、何