映画「山本五十六」を観終えて一言:面白くなかった!

面白くない映画『山本五十六』を観た。
観賞感想を書くと言ったから書くのであるが、感想として書くものが見当たらない。
物足りない映画、その理由は、製作費の不足が問題か? 役者の質の劣化が問題か? 否、問題は映画製作の土台となった半藤一利氏の描く山本五十六像と近代日本史解釈に問題がある。 半藤氏の描く日本国昭和史と山本五十六像に問題あり。 さりとてこれはわずかに映画を通して感じたこと。 半藤理論には触れたくないが、半藤解釈論破のためには彼の著作を読まねばならず、読んでいない今は、これ以上に何も言えない。
「半藤の五十六を読むべし」と、
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唯一、この一点を以てして、この映画はりっぱな映画だといえる。
ともあれ(山本五十六映画に関しては)、
何かにつけて表現がモノ足らず喰い足らず万事中途半端にて、結果として全く面白くない映画だった。(ま、ここいらは想定内にて、こんなもんでござんしょう……)
しかしながら、
いろいろシナリオ展開と映画画面展開を回想していると、驚異的な名場面が脳裏に描き浮んできた。
それは、コンピューターで制作したミッドウエー海戦場面だ。 同じことが言えるのは、2年かけてテレビで紹介された『坂の上の雲』のなか、日露戦争終盤のハイライト「日本海海戦」の戦闘場面である。 こういうコンピューター画面(動画)を制作するに、それなりの経費でそれなりの高品質な結果が得られるのか。
総じて『映画・山本五十六』のこと、そもそも映画製作の根底にあるべき崇高なアイデンティティーは無く、製作者の映画芸術に対する個性は希薄、映画のテーマであるはずの『歴史で紡がれる日本の未来』への情熱は低く、ストーリー展開及び役者のセリフを通して半藤一利的思考回路の甘さが映画全体に垂れ込め、やらなくてもよい最後の締めくくりのセリフをだらだらと玉木のだみ声が映画館内に響き、これがだらしなく締まらない。 只々感心するのはコンピューターグラフィック画像のセンスの良さとクオリティーの高さだ。(投稿:エセ男爵)
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