4月木曜会;「漱石を読む会」を終えて…
先週は珍しく滅茶忙しい日々続き、漱石読書会称して『木曜会』開催(4月22日)されて早くも4日経過です。この3日間、不肖トーマス青木メは寝ても覚めてもはたまた朝な夕な、「読書会報告書」を書こうと思いつつ本日に至りました。
いやぁ~ むずかしい……
「何がむずかしいのか?」と問われれば、
先ず、夏目漱石作『夢十夜』の読書感想を語るのは難しく、第二に、女性8名男性2名で構成される『木曜会』メンバーに馴染むのは不可能に近い難関で、第三に、並みの大学教授以上に博学博識な秀才I氏の講義スタイルの重厚さに圧倒され閉口し、近い将来、恐らく音をあげるに違いない。
「誰が、どういう『ね』をあげるのか!ですって?」
またもやトーマス青木が、直ぐにギヴ・アップ(Give-up!)ってことですよ。
てなことで、めくるめく右往左往雑念入り混じった未整理の脳裏スッキリせず、毎朝目が覚めて、毎晩寝る前に、「今日こそ書こう!」とか「あす朝には必ず書かねば……」と思っていた『木曜会顛末記』、一念発起してようやく今朝になって書いた次第であります。
まず、「夢十夜」読後感は、
そう、4月15日に岩波文庫大活字版買って直ぐ、まともな昼間の時間に読む間無く、珍しく毎晩眠る前に読んだのがいけなかった。半分眠りかけて読むものだから脳裏吸収力悪く弱く、10種類の夢物語からなるプロット&ストーリーは、眠る前4~5分で読み切れるものだから一晩で一作品読み進めるに丁度良かったけれど、眠る前の萎えた気力で読み進めた結果、作品『坊っちゃん』からイメージする「明るくて元気にメリハリのある夏目漱石」からほど遠く、別人の作品ではないかと想像するほどに暗くて意味不明とまではいかぬとも難解にて、まことに後味の悪い作品であった。
けれども、あにはからんや! ここが読書会の良さであります。 独りでは気が付かなかった「夢十夜」の切り口が次々と出て来るは出て来るは! 漱石好きインテリ中高年女性集団と主宰者I先生の絶妙なやりとりから、多くの発見あり、、、。
『夢十夜』(ゆめじゅうや)は、1908年(明治41年)7月25日から8月5日まで朝日新聞で連載されたとのこと。どうやらお盆前の読み物にして夏目漱石流怪談集。云わば「背筋の寒くなるような幽霊話」を短編で書き続ったものだそうだ。
私は、第6話が好きです。
運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。……(夏目漱石小説「夢十夜」引用)
…で始まり、
…ついに明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。……(夏目漱石小説「夢十夜」引用)
で、終わる。
で、何故第6話が好きか?と、問われれば、
他の話がいわゆる怪談的不気味さ漂いつつ奈落の底に落ちつつも底にたどり着けない無限の恐怖感に苛まれた、そんな神経衰弱風末期的症状の生半殺し的な雰囲気は、かろうじてこの6話には見当たらない。要するに、「暗くないから好きなのだ!」と言いたい。暗くて気分落ち込み読み進めたくなくなる(のは、自分だけか?)ような他の夢(悪夢)物語(すなわちドリームではなく、いわゆるナイトメアー:悪夢)の論評は、既にかなり多くの漱石評論学者挙って「諸説」を振りかざし、それなりの諸評のカタチが出来上がっているようで、それを読みあさるのも面白いかもしれない。今日に至るまで、漱石研究に興味無く縁のなかった自分が知らないだけか?思うに、この類の漱石作品の背景には、漱石自身の英国滞在中から始まった「漱石的ヨーロッパ文化の蓄積」からほとばしる膨大な欲求不満と、漱石流日本的価値観の狭間から湧き出るネガティブな試行錯誤の状態が「この作品(夢十夜)」にぶちまけられたのか? その比較対象として挙げたいのが「ぼっちゃん」や「吾輩は猫である」的な漱石作品だ。 そこには、漱石の、十二分に蓄え昇華されていた漢文世界と日本的知識人としての博識教養の素地に加え、ヨーロッパ文化解釈をブレンドしたのち上澄みのみを厳選して汲み上げた「漱石作品」が存在する。それがぼっちゃんであり猫であるか。 この種の作品が、「人間漱石の精神構造ブツ」(漱石と云うワイン)を透析(デキャンターに移し替え)して、澱(ネガティブな世界の漱石作品)を省いた上澄み(漱石作品のポジティヴなもの)だとするならば、私は漱石のポジティヴな上澄みのみのワイン(漱石作品)を味わいたい。と願う、単純思考の嗜好をもった人種なのです。
「ナぬ!漱石小説はワインか?……」
と、問われれば、
「そう、小説なんて、ワインを嗜むのと同じ味わい方で、飲む代わりに読んで楽しめば良いのではありませんか?……」
と、お答えしたい、トーマス青木なのであります。
認知症的雰囲気の漂う「夢十夜」の不気味な読後感はとりとめなく、この辺りで止め、読書会そのものに言及する。 読書会とは、「自分の読んだ本の読書感想を他人に聞いてもらいたいし聞きたい聞かせたい」という人たちの集まりである。 どうやら長続きしそうも無い。
その理由は、初めてお会いする女性多く、『漱石を読む』という共通点あれども、女性と席を同じくして一定の時間を費やすのは苦手。 特に中高年女性の間に入って気を使うのは懲り懲りなのであります。(投稿・トーマス青木)
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いやぁ~ むずかしい……
「何がむずかしいのか?」と問われれば、
先ず、夏目漱石作『夢十夜』の読書感想を語るのは難しく、第二に、女性8名男性2名で構成される『木曜会』メンバーに馴染むのは不可能に近い難関で、第三に、並みの大学教授以上に博学博識な秀才I氏の講義スタイルの重厚さに圧倒され閉口し、近い将来、恐らく音をあげるに違いない。
「誰が、どういう『ね』をあげるのか!ですって?」
またもやトーマス青木が、直ぐにギヴ・アップ(Give-up!)ってことですよ。
てなことで、めくるめく右往左往雑念入り混じった未整理の脳裏スッキリせず、毎朝目が覚めて、毎晩寝る前に、「今日こそ書こう!」とか「あす朝には必ず書かねば……」と思っていた『木曜会顛末記』、一念発起してようやく今朝になって書いた次第であります。
まず、「夢十夜」読後感は、
そう、4月15日に岩波文庫大活字版買って直ぐ、まともな昼間の時間に読む間無く、珍しく毎晩眠る前に読んだのがいけなかった。半分眠りかけて読むものだから脳裏吸収力悪く弱く、10種類の夢物語からなるプロット&ストーリーは、眠る前4~5分で読み切れるものだから一晩で一作品読み進めるに丁度良かったけれど、眠る前の萎えた気力で読み進めた結果、作品『坊っちゃん』からイメージする「明るくて元気にメリハリのある夏目漱石」からほど遠く、別人の作品ではないかと想像するほどに暗くて意味不明とまではいかぬとも難解にて、まことに後味の悪い作品であった。
けれども、あにはからんや! ここが読書会の良さであります。 独りでは気が付かなかった「夢十夜」の切り口が次々と出て来るは出て来るは! 漱石好きインテリ中高年女性集団と主宰者I先生の絶妙なやりとりから、多くの発見あり、、、。
『夢十夜』(ゆめじゅうや)は、1908年(明治41年)7月25日から8月5日まで朝日新聞で連載されたとのこと。どうやらお盆前の読み物にして夏目漱石流怪談集。云わば「背筋の寒くなるような幽霊話」を短編で書き続ったものだそうだ。
私は、第6話が好きです。
運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。……(夏目漱石小説「夢十夜」引用)
…で始まり、
…ついに明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。……(夏目漱石小説「夢十夜」引用)
で、終わる。
で、何故第6話が好きか?と、問われれば、
他の話がいわゆる怪談的不気味さ漂いつつ奈落の底に落ちつつも底にたどり着けない無限の恐怖感に苛まれた、そんな神経衰弱風末期的症状の生半殺し的な雰囲気は、かろうじてこの6話には見当たらない。要するに、「暗くないから好きなのだ!」と言いたい。暗くて気分落ち込み読み進めたくなくなる(のは、自分だけか?)ような他の夢(悪夢)物語(すなわちドリームではなく、いわゆるナイトメアー:悪夢)の論評は、既にかなり多くの漱石評論学者挙って「諸説」を振りかざし、それなりの諸評のカタチが出来上がっているようで、それを読みあさるのも面白いかもしれない。今日に至るまで、漱石研究に興味無く縁のなかった自分が知らないだけか?思うに、この類の漱石作品の背景には、漱石自身の英国滞在中から始まった「漱石的ヨーロッパ文化の蓄積」からほとばしる膨大な欲求不満と、漱石流日本的価値観の狭間から湧き出るネガティブな試行錯誤の状態が「この作品(夢十夜)」にぶちまけられたのか? その比較対象として挙げたいのが「ぼっちゃん」や「吾輩は猫である」的な漱石作品だ。 そこには、漱石の、十二分に蓄え昇華されていた漢文世界と日本的知識人としての博識教養の素地に加え、ヨーロッパ文化解釈をブレンドしたのち上澄みのみを厳選して汲み上げた「漱石作品」が存在する。それがぼっちゃんであり猫であるか。 この種の作品が、「人間漱石の精神構造ブツ」(漱石と云うワイン)を透析(デキャンターに移し替え)して、澱(ネガティブな世界の漱石作品)を省いた上澄み(漱石作品のポジティヴなもの)だとするならば、私は漱石のポジティヴな上澄みのみのワイン(漱石作品)を味わいたい。と願う、単純思考の嗜好をもった人種なのです。
「ナぬ!漱石小説はワインか?……」
と、問われれば、
「そう、小説なんて、ワインを嗜むのと同じ味わい方で、飲む代わりに読んで楽しめば良いのではありませんか?……」
と、お答えしたい、トーマス青木なのであります。
認知症的雰囲気の漂う「夢十夜」の不気味な読後感はとりとめなく、この辺りで止め、読書会そのものに言及する。 読書会とは、「自分の読んだ本の読書感想を他人に聞いてもらいたいし聞きたい聞かせたい」という人たちの集まりである。 どうやら長続きしそうも無い。
その理由は、初めてお会いする女性多く、『漱石を読む』という共通点あれども、女性と席を同じくして一定の時間を費やすのは苦手。 特に中高年女性の間に入って気を使うのは懲り懲りなのであります。(投稿・トーマス青木)
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