松井先生講座(森保研No.-5); 厳島神社門前町の空間構造とその変遷をめぐって
講義資料の第3項(=C)に於いては「西町と東町」の空間に注目。厳島神社の東西に発達した性格的に異質な町の存在が取沙汰される。そして、西町と東町の相異が明らかにされている。講義の要点は以下講義資料赤字反転部分の文言に集約されている。
さて、ここで質問的確認です(既にご存知の方は外して)が、
「宮島に何度も足を運んでおられる諸兄姉よ! 厳島神社を起点に、西と東に(今も)実存する街並みの風情や構築物の相違にお気付きの方はいらっしゃいますか?」……
気がついておられたならば、否、お気付きの点乃至ご自身のご意見と比較対照しながら『松井先生講義資料』を熟読して下さい。 そう、たえず自分の「独自な観点や意見」と「学者の説」を比較しながら考察するところに、歴史の『学問としての面白さ』ある。と、思うのであります。(投稿・トーマス青木)
(以下、講義資料引用)
C. 厳島神社門前町の異質な空間と寛容性
(1) 厳島神社門前町の東町と西町
▪ 厳島神社門前町のでは18世紀初頭以前から、東町・西町という呼称が確認できる
▪ 厳島神社門前町のうち西町は、江戸時代に入る以前から発展していたといえる
▪ 厳島神社門前町の本社より東か西かで、東町・西町の区別が見られたようである
➝ 厳島神社門前町のうち西町は、本社を取り組む形で古くから発展していたようである。
(2) 厳島神社門前町の寛容性と東西の違い
▪ 戦国時代後期の厳島神社門前町には、神社を悪魔と考えるキリシタンも住んでいた
▪ 江戸時代初期に『遊郭』が移設された(≒寛容)
▪ 毛利輝元は厳しい町掟を布いても、厳島神社門前町は異質なものの存在を許した
➝ 厳島神社門前町のなかでも、神社と古くから深いかかわりのある西町と、繋り方が薄い東町のあいだでは、異質なものに対する寛容性にも差異が見られたと考えられる。大内義隆の滅亡後に宮島に逃れてきたキリシタンも、密かに東町の一角に住まいしていたと考えられる。(講義資料の引用はここまで)
<…続く……>
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さて、ここで質問的確認です(既にご存知の方は外して)が、
「宮島に何度も足を運んでおられる諸兄姉よ! 厳島神社を起点に、西と東に(今も)実存する街並みの風情や構築物の相違にお気付きの方はいらっしゃいますか?」……
気がついておられたならば、否、お気付きの点乃至ご自身のご意見と比較対照しながら『松井先生講義資料』を熟読して下さい。 そう、たえず自分の「独自な観点や意見」と「学者の説」を比較しながら考察するところに、歴史の『学問としての面白さ』ある。と、思うのであります。(投稿・トーマス青木)
(以下、講義資料引用)
C. 厳島神社門前町の異質な空間と寛容性
(1) 厳島神社門前町の東町と西町
▪ 厳島神社門前町のでは18世紀初頭以前から、東町・西町という呼称が確認できる
▪ 厳島神社門前町のうち西町は、江戸時代に入る以前から発展していたといえる
▪ 厳島神社門前町の本社より東か西かで、東町・西町の区別が見られたようである
➝ 厳島神社門前町のうち西町は、本社を取り組む形で古くから発展していたようである。
(2) 厳島神社門前町の寛容性と東西の違い
▪ 戦国時代後期の厳島神社門前町には、神社を悪魔と考えるキリシタンも住んでいた
▪ 江戸時代初期に『遊郭』が移設された(≒寛容)
▪ 毛利輝元は厳しい町掟を布いても、厳島神社門前町は異質なものの存在を許した
➝ 厳島神社門前町のなかでも、神社と古くから深いかかわりのある西町と、繋り方が薄い東町のあいだでは、異質なものに対する寛容性にも差異が見られたと考えられる。大内義隆の滅亡後に宮島に逃れてきたキリシタンも、密かに東町の一角に住まいしていたと考えられる。(講義資料の引用はここまで)
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