森安研究会(No.-2);松井先生のレクチャープラン
先月末から数日に亘って降りしきる寒い雨の毎日、がんばって作業した。
いやなに大したことではありませんぞ。森安研究会(開催日:平成22年3月28日)「公開講座」の時に頂いた「松井先生のレクチャープラン」をパソコンに(ワード文章資料として保存したく思い)書き写したのであります。(第1回投稿記事はこちらから入れます…)
?
不肖トーマス青木あたりが時たま安請け合いしてやる講演会クラスならメモ書き程度で始める。 されど大学教授レベルならばレクチャープランといえども既に小論文。
まして松井輝昭先生の"Lecture Plan"ともなればなおさらです。
つまり、その講義に参加した聴講生のための「特定小論文」であるからして、旅遊亭ブログ記事中に公開するのは問題あり!いわゆる著作権大侵害になるかどうか。と、考えるのですが、如何か?
ま、あまり難しく考えないで、公開の目的は松井先生の講義がいかに素晴らしい内容であったか! ということをブログ上で言いたいが為の手順だから、ここはお許しいただきたい。 もうひとつ、レクチャープランの組み立て方に特色あり、今迄、それに気がつかなかった?と云うよりこのたび初めて気がついた。松井先生流の特徴を見つけた。 『それ、一体何か?』を、追って説明したいが為の比較対象資料を提示しておきたい。<・続く・・>
(投稿・トーマス青木)
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いやなに大したことではありませんぞ。森安研究会(開催日:平成22年3月28日)「公開講座」の時に頂いた「松井先生のレクチャープラン」をパソコンに(ワード文章資料として保存したく思い)書き写したのであります。(第1回投稿記事はこちらから入れます…)
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不肖トーマス青木あたりが時たま安請け合いしてやる講演会クラスならメモ書き程度で始める。 されど大学教授レベルならばレクチャープランといえども既に小論文。
まして松井輝昭先生の"Lecture Plan"ともなればなおさらです。
つまり、その講義に参加した聴講生のための「特定小論文」であるからして、旅遊亭ブログ記事中に公開するのは問題あり!いわゆる著作権大侵害になるかどうか。と、考えるのですが、如何か?
ま、あまり難しく考えないで、公開の目的は松井先生の講義がいかに素晴らしい内容であったか! ということをブログ上で言いたいが為の手順だから、ここはお許しいただきたい。 もうひとつ、レクチャープランの組み立て方に特色あり、今迄、それに気がつかなかった?と云うよりこのたび初めて気がついた。松井先生流の特徴を見つけた。 『それ、一体何か?』を、追って説明したいが為の比較対象資料を提示しておきたい。<・続く・・>
(投稿・トーマス青木)
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厳島神社門前町の空間構造とその変遷をめぐって
― 神の論理と人の論理の葛藤と協調を中心に ―
平成22年3月28日
於鶴学園広島校舎
松井輝昭(教授)
A. はじめに
(1) 門前町宮島 その特色は
▪ 寺社の門前に発展した封建集落(定義)
▪ 門前に住まいする『住人』とは、僧侶や神官に奉仕し(僧侶や神官の)日々の営みを支える
▪ 門前に住まいする『住人』とは、参拝者に利便を供し様々な商売を行う
➝ 寺社と住人は、持ちつ持たれつの関係にあったといえる。
(2) 宮島門前町の立地と軸線
▪ 宮島門前町の立地≒宮島の本土側(北側)に開けたいくつかの谷よりなる
▪ 厳島神社に関る複数の軸線は、特定地域を結ぶ厳密な法則性を有する
▪ 宮島神社門前町を構成する各谷も、特定の秩序を持って繋がると考えられる
➝ 最も大きな問題は厳島神社門前町への侵入経路の変遷と、江戸時代初期に宮島へ『遊郭』が移設されたことであろう。
B. 描かれた厳島門前町の空間認識とその変容
(1) 空間認識を異にする2枚の絵画
▪ 明治時代中期の観光案内の絵図は、厳島神社門前町を統一性ある空間として描く
▪ 江戸時代前期の一層の屏風絵は、厳島神社門前町を複数の異質な空間として描く
▪ 片や観光名所(場所)と(場所を結ぶ)道路を強調して描き、片や宗教的にポイントとなる個所を描く
➝ 近代と前近代の絵画とで、観光重視か宗教重視か空間認識を大きく異にする。
(2) 厳島神社門前町の原始的な在り方とは
▪ 前近代では厳島神社を中心に描いても、他の宗教的なポイントにも役割を持たせる
▪ 前近代では谷々の建物や人物を統一せず、それぞれ個性や独自の役割を帯びさせる
▪ 前近代の厳島門前町の各部分には、歴史や成り立ちの違いが反映されている
➝ 前近代の厳島門前町は谷々で歴史性や成り立ちを異にしても、それぞれの独自性を認め穏やかに結びつくことを可としたようである。少なくとも江戸時代前期の画家はこのことを受け入れ、変更することなくありのままに描いたといえる。厳島門前町の本質を明らかにするためには、この様な原始的な在り方まで遡ることが必要になる。
C. 厳島神社門前町の異質な空間と寛容性
(1) 厳島神社門前町の東町と西町
▪ 厳島神社門前町のでは18世紀初頭以前から、東町・西町という呼称が確認できる
▪ 厳島神社門前町のうち西町は、江戸時代に入る以前から発展していたといえる
▪ 厳島神社門前町の本社より東か西かで、東町・西町の区別が見られたようである
➝ 厳島神社門前町のうち西町は、本社を取り組む形で古くから発展したいたようである。
(2) 厳島神社門前町の寛容性と東西の違い
▪ 戦国時代後期の厳島神社門前町には、神社を悪魔と考えるキリシタンも住んでいた
▪ 江戸時代初期に『遊郭』が移設された(≒寛容)
▪ 毛利輝元は厳しい町掟を布いても、厳島神社門前町は異質なものの存在を許した
➝ 厳島神社門前町のなかでも、神社と古くから深いかかわりのある西町と、繋り方が薄い東町のあいだでは、異質なものに対する寛容性にも差異が見られたと考えられる。大内義隆の滅亡後に宮島に逃れてきたキリシタンも、密かに東町の一角に住まいしていたと考えられる。
D. 厳島神社門前町の町掟や習俗に見られる西町の特質
(1) 厳島神社後背の西町の厳格さと寛容さ
▪ 厳島神社への類焼を恐れる社家の要望で、神社周辺にある民家などを排除する
▪ 厳島神社に不浄などが及ぶのを恐れ、近くの社家・供僧などに一定の役割を求める
▪ 厳島神社の大祭に多くの人が参詣するのは、古くから必要悪として認めている
➝ 厳島神社門前町のうち西町では大祭の場合を除いて、最も重要な聖域である神社に不幸な事態が起こらないように厳重かつ細かな配慮がなされている。聖域である神社を守ることが、西町の人々がなすべき最も大きな仕事であったといえる。
(2) 厳島神社門前町のうち西町に偏る宗教的ポイント
▪ 厳島神社門前町のうち西町の住人は、神社に仕える社家・供僧やその下人が多い
▪ 厳島神社門前町のうち西町の住人は、宮島の地主神である大元神社と深く関る
▪ 宮島の霊峰とされる弥山登山口も、古くは厳島神社の西町に集中している
➝ 厳島神社門前町のうち西町は神社と深い関りを持つだけでなく、その聖域性を維持するために厳格かつ大きな役割を果たすことが求められていたのである。また、このことが遅くとも18世紀になるころ、東町という支配単位が確定された要因といえよう。
E. 厳島神社門前町への主たる進入経路の盛衰
(1) 厳島神社門前町のうち西町への進入経路
▪ 前近代の厳島神社門前町を描いたものは、その大半が西方から描いている
▪ 前近代に描かれた厳島神社門前町の絵画では、多くの船が東向けの進路を取っている
▪ 西町への侵入経路は多くが、大元神社の辺りか大願寺の下辺りと推測できる
➝ 厳島神社門前町のうち西町への進入経路は、本社より西方が通例であったと考えられる。大元神社から山越えする経路が最もよく利用されたのではないか。
(2) 厳島神社門前町のうち東町への進入経路
▪ 古い東町への進入経路は、長浜神社の辺りからの山越ルートかもしれない。
▪ 後の東町への進入経路は大半が、有浦の海岸からのものに変わったと思われる
▪ 長浜神社の辺りからの山越ルートは、『遊郭』などへの入口として後まで使われた
➝ 古くから続いていた長浜神社の辺りからの山越ルート上に、聖域を守るための仁王門と大弥堂があり西町への進入経路としても注目できる。ある時期までは世俗の入口と参詣の入口は違っていたのかもしれない。しかし、有浦が交易の拠点として栄るようになると、厳島神社門前町への古い進入経路は重要度が下がって行ったといえよう。
F. 厳島神社門前町における神の理論と人の理論
(1) 厳島大明神に捧げられた神の論理
▪ 厳島神社門前町に住まい住人は、原則として「社法」に従わなければならない
▪ 厳島神社に奉仕する人々は、神事・祭礼の分配を受けることができる
▪ 厳島神社門前町に住まう人々も、『宿』として神事・祭礼の配分を受ける
➝ 厳島神社門前町に住まう人々は「社法」に随うだけでなく、神の民として神事・祭礼などに関る分配を受けることができる。これは厳島神社門前町の人々を神につなぎとめる論理でもあった。
(2) 厳島神社門前町で強まる人の論理
▪ 厳島神社の大祭に集まる人を目当てに、神社周辺に屋敷を求め住み付く
▪ 厳島神社門前町に屋敷を構えて、商いだけでなく歓楽の世界にも手を広げる
▪ 宮島の山に多くの『山子』が入り、聖地の山(の森林)の大半を切り尽くすようになる
➝ 宮島神社門前町に住まう人のなかには、神の論理の余慶を利用してより大きな富を得ようとする人々も生まれた。しかし、門前町に住まう人は誰もが「社法」に随わねばならず、神の子として神社に奉仕することが求められた。多くの人々が門前町に集まり住み、様々な活動を行うようになったとき、人の論理と神の論理の協調が必要になり、また世俗の権力が作動したのである。しかし、厳島神社門前町における神の論理は、近代に入っても長くその効力を保ち続けたのである。
G. 結びにかえて ―宮島に色濃く残る門前町の名残―
(1) 宮島が持つ世界文化遺産としての要件
▪ 厳島神社門前町の歴史を深く探り、今日に伝わるモノとの比較研究を行う
▪ 厳島神社門前町の名残を伝える地名、宗教的ポイントの意味合いを探る
▪ 厳島神社門前町の毎日の営みの要素、残された建造物や町の地名や配置に求める
▪ 厳島神社門前町
➝ 「厳島神社門前町」の特質は何なのか、歴史学、民俗学、宗教学、建築学、地理学、地質学、植物学など学際的に探り、その成果を今日に伝わるものと結び付けることにより、統一性のある姿が少しずつ見えてくるかもしれない。世界文化遺産として宮島に残された文化財を守り伝えることだけでなく、それぞれが生まれた時点で持たされていた意味合い役割を細かく明らかにし、今日に伝えられている意味を広く確認することが求められているように思われる。
かつての厳島神社門前町に含まれる限られたところは、文化財の現状変更にともなう発掘調査も可能になったので、その成果も積み上げていくならばより豊かな成果が得られるものと期待できる。文献から得られていたイメージがくつがえるかもしれない。また、宮島を取り巻く海とのかかわりについても探求を深めることで、厳島神社門前町への進入経路の変遷もより具体的なイメージが得られるであろう。
これからの厳島神社門前町の研究は、断片的な研究成果であって有機的な繋ぎ合わせることで、より深みと厚みのあるものになるであろう。厳島神社門前町の町屋の特質を明らかにするうえでも、区分された各谷の成長過程やつながり方を念頭におくとき何らかの差異が認められ、究明の手掛かりを見出すことができる可能性があると考えられる。
(以上、松井先生レクチャープランより)
厳島神社門前町の空間構造とその変遷をめぐって
― 神の論理と人の論理の葛藤と協調を中心に ―
平成22年3月28日
於鶴学園広島校舎
松井輝昭(教授)
A. はじめに
(1) 門前町宮島 その特色は
▪ 寺社の門前に発展した封建集落(定義)
▪ 門前に住まいする『住人』とは、僧侶や神官に奉仕し(僧侶や神官の)日々の営みを支える
▪ 門前に住まいする『住人』とは、参拝者に利便を供し様々な商売を行う
➝ 寺社と住人は、持ちつ持たれつの関係にあったといえる。
(2) 宮島門前町の立地と軸線
▪ 宮島門前町の立地≒宮島の本土側(北側)に開けたいくつかの谷よりなる
▪ 厳島神社に関る複数の軸線は、特定地域を結ぶ厳密な法則性を有する
▪ 宮島神社門前町を構成する各谷も、特定の秩序を持って繋がると考えられる
➝ 最も大きな問題は厳島神社門前町への侵入経路の変遷と、江戸時代初期に宮島へ『遊郭』が移設されたことであろう。
B. 描かれた厳島門前町の空間認識とその変容
(1) 空間認識を異にする2枚の絵画
▪ 明治時代中期の観光案内の絵図は、厳島神社門前町を統一性ある空間として描く
▪ 江戸時代前期の一層の屏風絵は、厳島神社門前町を複数の異質な空間として描く
▪ 片や観光名所(場所)と(場所を結ぶ)道路を強調して描き、片や宗教的にポイントとなる個所を描く
➝ 近代と前近代の絵画とで、観光重視か宗教重視か空間認識を大きく異にする。
(2) 厳島神社門前町の原始的な在り方とは
▪ 前近代では厳島神社を中心に描いても、他の宗教的なポイントにも役割を持たせる
▪ 前近代では谷々の建物や人物を統一せず、それぞれ個性や独自の役割を帯びさせる
▪ 前近代の厳島門前町の各部分には、歴史や成り立ちの違いが反映されている
➝ 前近代の厳島門前町は谷々で歴史性や成り立ちを異にしても、それぞれの独自性を認め穏やかに結びつくことを可としたようである。少なくとも江戸時代前期の画家はこのことを受け入れ、変更することなくありのままに描いたといえる。厳島門前町の本質を明らかにするためには、この様な原始的な在り方まで遡ることが必要になる。
C. 厳島神社門前町の異質な空間と寛容性
(1) 厳島神社門前町の東町と西町
▪ 厳島神社門前町のでは18世紀初頭以前から、東町・西町という呼称が確認できる
▪ 厳島神社門前町のうち西町は、江戸時代に入る以前から発展していたといえる
▪ 厳島神社門前町の本社より東か西かで、東町・西町の区別が見られたようである
➝ 厳島神社門前町のうち西町は、本社を取り組む形で古くから発展したいたようである。
(2) 厳島神社門前町の寛容性と東西の違い
▪ 戦国時代後期の厳島神社門前町には、神社を悪魔と考えるキリシタンも住んでいた
▪ 江戸時代初期に『遊郭』が移設された(≒寛容)
▪ 毛利輝元は厳しい町掟を布いても、厳島神社門前町は異質なものの存在を許した
➝ 厳島神社門前町のなかでも、神社と古くから深いかかわりのある西町と、繋り方が薄い東町のあいだでは、異質なものに対する寛容性にも差異が見られたと考えられる。大内義隆の滅亡後に宮島に逃れてきたキリシタンも、密かに東町の一角に住まいしていたと考えられる。
D. 厳島神社門前町の町掟や習俗に見られる西町の特質
(1) 厳島神社後背の西町の厳格さと寛容さ
▪ 厳島神社への類焼を恐れる社家の要望で、神社周辺にある民家などを排除する
▪ 厳島神社に不浄などが及ぶのを恐れ、近くの社家・供僧などに一定の役割を求める
▪ 厳島神社の大祭に多くの人が参詣するのは、古くから必要悪として認めている
➝ 厳島神社門前町のうち西町では大祭の場合を除いて、最も重要な聖域である神社に不幸な事態が起こらないように厳重かつ細かな配慮がなされている。聖域である神社を守ることが、西町の人々がなすべき最も大きな仕事であったといえる。
(2) 厳島神社門前町のうち西町に偏る宗教的ポイント
▪ 厳島神社門前町のうち西町の住人は、神社に仕える社家・供僧やその下人が多い
▪ 厳島神社門前町のうち西町の住人は、宮島の地主神である大元神社と深く関る
▪ 宮島の霊峰とされる弥山登山口も、古くは厳島神社の西町に集中している
➝ 厳島神社門前町のうち西町は神社と深い関りを持つだけでなく、その聖域性を維持するために厳格かつ大きな役割を果たすことが求められていたのである。また、このことが遅くとも18世紀になるころ、東町という支配単位が確定された要因といえよう。
E. 厳島神社門前町への主たる進入経路の盛衰
(1) 厳島神社門前町のうち西町への進入経路
▪ 前近代の厳島神社門前町を描いたものは、その大半が西方から描いている
▪ 前近代に描かれた厳島神社門前町の絵画では、多くの船が東向けの進路を取っている
▪ 西町への侵入経路は多くが、大元神社の辺りか大願寺の下辺りと推測できる
➝ 厳島神社門前町のうち西町への進入経路は、本社より西方が通例であったと考えられる。大元神社から山越えする経路が最もよく利用されたのではないか。
(2) 厳島神社門前町のうち東町への進入経路
▪ 古い東町への進入経路は、長浜神社の辺りからの山越ルートかもしれない。
▪ 後の東町への進入経路は大半が、有浦の海岸からのものに変わったと思われる
▪ 長浜神社の辺りからの山越ルートは、『遊郭』などへの入口として後まで使われた
➝ 古くから続いていた長浜神社の辺りからの山越ルート上に、聖域を守るための仁王門と大弥堂があり西町への進入経路としても注目できる。ある時期までは世俗の入口と参詣の入口は違っていたのかもしれない。しかし、有浦が交易の拠点として栄るようになると、厳島神社門前町への古い進入経路は重要度が下がって行ったといえよう。
F. 厳島神社門前町における神の理論と人の理論
(1) 厳島大明神に捧げられた神の論理
▪ 厳島神社門前町に住まい住人は、原則として「社法」に従わなければならない
▪ 厳島神社に奉仕する人々は、神事・祭礼の分配を受けることができる
▪ 厳島神社門前町に住まう人々も、『宿』として神事・祭礼の配分を受ける
➝ 厳島神社門前町に住まう人々は「社法」に随うだけでなく、神の民として神事・祭礼などに関る分配を受けることができる。これは厳島神社門前町の人々を神につなぎとめる論理でもあった。
(2) 厳島神社門前町で強まる人の論理
▪ 厳島神社の大祭に集まる人を目当てに、神社周辺に屋敷を求め住み付く
▪ 厳島神社門前町に屋敷を構えて、商いだけでなく歓楽の世界にも手を広げる
▪ 宮島の山に多くの『山子』が入り、聖地の山(の森林)の大半を切り尽くすようになる
➝ 宮島神社門前町に住まう人のなかには、神の論理の余慶を利用してより大きな富を得ようとする人々も生まれた。しかし、門前町に住まう人は誰もが「社法」に随わねばならず、神の子として神社に奉仕することが求められた。多くの人々が門前町に集まり住み、様々な活動を行うようになったとき、人の論理と神の論理の協調が必要になり、また世俗の権力が作動したのである。しかし、厳島神社門前町における神の論理は、近代に入っても長くその効力を保ち続けたのである。
G. 結びにかえて ―宮島に色濃く残る門前町の名残―
(1) 宮島が持つ世界文化遺産としての要件
▪ 厳島神社門前町の歴史を深く探り、今日に伝わるモノとの比較研究を行う
▪ 厳島神社門前町の名残を伝える地名、宗教的ポイントの意味合いを探る
▪ 厳島神社門前町の毎日の営みの要素、残された建造物や町の地名や配置に求める
▪ 厳島神社門前町
➝ 「厳島神社門前町」の特質は何なのか、歴史学、民俗学、宗教学、建築学、地理学、地質学、植物学など学際的に探り、その成果を今日に伝わるものと結び付けることにより、統一性のある姿が少しずつ見えてくるかもしれない。世界文化遺産として宮島に残された文化財を守り伝えることだけでなく、それぞれが生まれた時点で持たされていた意味合い役割を細かく明らかにし、今日に伝えられている意味を広く確認することが求められているように思われる。
かつての厳島神社門前町に含まれる限られたところは、文化財の現状変更にともなう発掘調査も可能になったので、その成果も積み上げていくならばより豊かな成果が得られるものと期待できる。文献から得られていたイメージがくつがえるかもしれない。また、宮島を取り巻く海とのかかわりについても探求を深めることで、厳島神社門前町への進入経路の変遷もより具体的なイメージが得られるであろう。
これからの厳島神社門前町の研究は、断片的な研究成果であって有機的な繋ぎ合わせることで、より深みと厚みのあるものになるであろう。厳島神社門前町の町屋の特質を明らかにするうえでも、区分された各谷の成長過程やつながり方を念頭におくとき何らかの差異が認められ、究明の手掛かりを見出すことができる可能性があると考えられる。
(以上、松井先生レクチャープランより)
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