画家・迫田嘉弘氏によせて・・

(迫田嘉弘油絵展より・・)
迫田嘉弘油絵展(福屋八丁堀本店7F美術画廊にて<11月8日~14日>)を鑑賞していたら、とある作文を思い出しました。
それはエセ男爵より、迫田画伯の友人宛に書かれた「エッセイ読後感想文」なのです。 数年前より、迫田画伯は「Takanobashi会」という地元のジャーナリストならびにマスコミ関係の方々を中心に結成された「紳士交友会」のメンバーに入っており、そのメンバーのお一人は地元広島の中世に焦点をあてたエッセイを書いておられる。
なぜか本日は、そのエッセイの一部を拝読した後に書いた感想文をご紹介します。
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<投稿:トーマス青木>
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『読後感想』
Tさまのエッセイは友人SK氏(迫田画伯のこと)よりの薦めによりさっそく拝読いたしました。二編とも一気に読み切れました。
読者をして一気に読みきらせる作品は、作者が良い作品を書かれた「証し」である、と、断言できます。
昭和2?年H市に生まれ、現在もH市に住所を置くわりには、地元での人的交友の希薄な私をもってして、H市在住の文化人の手による「エッセイ」に出会えた事、初めての体験であります。<注:H市=広島市>
めずらしく、私の背筋には「良い音楽に出会えたとき」のごとく感動の衝撃で弱電流が走りました。弱電流が流れれば目頭が熱くなり(銀座東京に始まり、いまや日本全国から世界を徘徊なさる愛すべき中年男性・赤マント氏、すなわち椎名誠兄い(anii)の定番行動と同様、夕方のビールが美味くなり、加えて小生の場合タバコの消費量が増加するのです。おっと、余談で失礼しました。
とにかく、このような良い読後感、久方ぶりに清々しい気分にさせていただきました事、まずは御礼申し上げます。たいへんありがとうございました。
さっそくですが率直に感想を述べさせていただきますと、
(一) 切れ味の良いみごとなストーリーの説得力は、すなわち作者がすでにセンスよい筆力を基盤に持たれ、日々これを磨きぬかれている事を証明しており、
(二) その力と技の冴えをもって、まずは平和ボケ都市『H市』のテイタラク、現行の状態のままでの推移すれば即ち、ふるさとの衰退さえあれ発展はなし、、、。このような夢なき将来展望に対し、絶妙な切り口から「苦言」を呈され、もって同感である小生を喜ばせて頂き、
(三) 切り替えして、新たな、いや旧知であるべき多くの市民が気付くべくして見落としている「Hの魅力再発掘」の必要性の強いご進言があり、原爆ドームや平和運動を傍におき、「OO城」に着眼され、もって中世H島の歴史的考察を宣言される、
(四) いまや、H県およびH市を取り巻く「将来環境」は八方塞であり、ここは一つ、直接市民県民の手で、「発展的な何か?」を考え、あわせて行動する必要性を再考する、その機会を「貴エッセイ」は与え、且つ「檄」を飛ばされており、小生さっそく「それ」に共感し、感動し、喜び、
(五) 加えて腹立たしすぎて語りたくないことに、今一度敢えて言及すれば、すでに世界遺産?に指定されている『宮O』のありていについては、言わずもがな、「魅力創り」や「分かりやすい付帯的な前後関係」の解説など、とことん地元民の工夫が必要であり、そのイントロダクションに作者が触れられ、
(六) テーマOO城にもどれば今まで、市民の一人一人が考え付かなかったOO城の広大な全体像を筆者ご自身のフィールドワークにより小気味よいご紹介あり、
(七) 結びとして、調査展開の継続をベースに、中世OOの有り体、を歴史考察し、ご紹介いただけるとの事!最近になって少しずつ、自分の生まれたこの地OOの歴史に遡行したくなった今の自分にとって、まさに、歴史の局面をテーマに書き進められるであろう次号を楽しみにしているのです。
昨今、やたら物書き志向が流行している中、作品の中に作者の確固たる信念やアイデンティティーのかけらもなく、あまた感情のみが先行し、読み終えると何も残らず残れば後味悪き、読者に伝えるべき内容のかけらも持ち合わせていない物書きがあまりにも多いのではないか。そんなこんな憂慮や憤慨などしておりました中、本作品のリズミカルにして簡潔な文章表現、早くも次号を拝読したくなる爽快感に、一本筋の通ったお考え(アイデンティティー・ポリシーなどなど)が、核として力強く作品の基盤に存在する。くりかえしますが、作品の根底にある作者の頼もしいご意志と凛とした持論や意向をお持ちであり、その持論に同感です。
文章で「論陣」を張る!
書いたもので意見発表するのが論文であり、評論・論評文でありましょう。頭脳で考え、頭脳で描いたモノを文面にする難しさは、口頭で表現するより難易度が高い、と、小生は断言します。
過去の実績や訓練も無く、はずかしながら数年前から突然、自分も「ものを書いてみたい」という意欲に駆られ、切れ切れツレズレに小説執筆を重ねて約三年、思いのほか長編になりそうで、はたまた時代考証人文地理的論証の収集などに手間取り未完成の作品を引きずりつつ今日に至ります。いずれにしてもまだまだ修行が足りないようで、この度のTさまのエッセイを拝読させていただいた事、大きな刺激となりました。他人が書いた作品を批判するのは大変に楽な作業です。コロンブスの卵と同様、物書きの世界も、書いた人が一番、二番三番が無くて、論評する立場の人は、どうあがいても十番目。書いた人物の下の下の下の下にようやく位置します。論評者が大上段に構え、いくら大きな事を論評しても何も始まりません。が、時に作者は、論評を待っていることもあり、そんなときだけ論評者が作者に貢献できると信じます。
思うに、
どのようなジャンルの文章であれ、「文字で書かれているもの」の内容を理解するにはそれなりの知識の蓄積と未知の対象物に興味を持つ「意欲」が、あらかじめ「読み手=読者」に必要です。
くわえて、
書かれた作品内容を「論評」として批評表現するにあたり、当事者が面と向かって対峙し、「口頭」による議論(意見交換か?)の方法もあれば、「文章」の遣り取りによる「論議」もあります。
口頭(しゃべり)で「自分の意見発表」を正確に行い、且つ、相手の口頭(しゃべり)による意見を正確に捉え、さらに、より正確に「答える」難しさが存在します。時に誤解を生じ、時に、より深遠な相互の理解を推し進めるも可能となるのです。
さて、
これが文章による「批判論評」となった場合、上述の「口頭による方法」より、さらにその難易度は高くなるが、難易度が高いゆえ「より大きな誤差」が生ずる危険性はますます大きくなるわけでしょう。しかし、確立された信念と筆力の持ち主により、『文章』としてしたためられた場合、著者の意思から読者への意思伝達事項はけっしてその誤差は生じない。むしろ、伝達の正確性はその精度を増す。あわせて、豊かにして含蓄のある文章表現には思想の奥行きが醸し出され、そうなれば読み手それぞれ自らが無限大の想像力をもって勝手に先を創造し始める。つまりその引き金となるものが、作家の筆力というものである。その筆力により、文章全体にちりばめられたセンテンスの織り成す作品の行間には、さらなる含蓄が秘められる。
Tさまのエッセイは、すでに右の域に到達された作品であります。
作風にもいろいろ千差万別の所作があります。読者すなわち読み手側にも、作品・作風・テーマやシナリオに対する好みというものがありまして、ここは、決してそれらの良し悪しを一くくりには出来るものではない。と、思いますが、当作風は私の「好み」であります。
今ここに、
次の執筆を待ちわびている読者がまた一人増えました事ご報告するとともに、今後継続され必ずやご発展を遂げられる文筆活動に敬意を表し、恐れながらひとまずエールと喝采をお送り申し上げる次第であります。
平成十六年九月OO日
エセ男爵 拝
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